東京観光

 

「東京都」という名称が用いられたのはいつからなのでしょうか。


実は戦時中の1943年7月に東京都という行政区分が登場しました。


1868年から1943年までは、東京「府」という名称でした。


それではなぜ1943年に、東京「都」になったのでしょうか。


そこには、東京市と東京府の二重行政問題(権限や行政効率化の問題)や、戦争遂行上の問題が関係してきます。

 


現在の東京都は、23区・26市・5町・8村で構成されています


1893(明治26)年に三多摩地域(西多摩、北多摩、南多摩)が神奈川県から移管され、現在の形になりました。


それ以前は、ほぼ現在の23区の範囲と伊豆・小笠原諸島の地域が東京府でした(伊豆諸島は1878(明治11)年、小笠原諸島は1880(明治13)年にそれぞれ東京府に編入)。


1896(明治29)年には、政府が貴族院に東京都制に関する法案を提出しました(Ref.A15113054000)。


法案では、東京市(麹町区など15区)を「東京都」として独立させ、残りの地域を「武蔵県」として分離させようとしました。


しかし、東京市議会などの反対により、実現しませんでした。


東京都制導入に関する議論は、中央政府の役人を都長官(知事)として派遣し、任命させようとする中央政府・貴族院と、選挙により選ぼうとする衆議院・東京市の対立が存在しました(当時の知事は、政府から派遣された役人が任命されていました「Q&A戦前の知事はどのようにきめたの?」をご参照ください)。


前者は中央政府の役人を派遣することで、政府の意に沿った都政を実行しようとする意図がありました。


後者は長官を選挙で選ぶことで、地方自治の拡大を目指す意図がありました。

 


1923(大正12)年9月1日、関東大震災が発生しました。


東京府内では、約7万人の死者行方不明者を出しました。


後藤新平を中心として「帝都復興事業」(1923年~1930年)が開始され(Ref.A15060092100)、近代的な都市計画のもとに運河・道路・公園の整備が進みました。


東京市とその周辺は、震災から復興する過程で、人口の増加が進みました。


東京市と周辺の町村はそれぞれ管轄が異なるため、包括的な行政を実行できませんでした。


そのような状況を打開するため、1932(昭和7)年の段階で、東京市は周辺の82カ町村と合併し、「大東京」(35区)が成立しました。


この合併の結果、東京府の人口の約93%が東京市の住人となり、府税総額の約96%を東京市民が納めることになりました。


東京府と東京市の職掌事務の分担を明確にする必要が更に強まりました。


その解決策として期待されたのが東京都制でした。

 

1923(大正12)年9月1日、関東大震災が発生しました。


東京府内では、約7万人の死者行方不明者を出しました。


後藤新平を中心として「帝都復興事業」(1923年~1930年)が開始され(Ref.A15060092100)、近代的な都市計画のもとに運河・道路・公園の整備が進みました。


東京市とその周辺は、震災から復興する過程で、人口の増加が進みました。


東京市と周辺の町村はそれぞれ管轄が異なるため、包括的な行政を実行できませんでした。


そのような状況を打開するため、1932(昭和7)年の段階で、東京市は周辺の82カ町村と合併し、「大東京」(35区)が成立しました。


この合併の結果、東京府の人口の約93%が東京市の住人となり、府税総額の約96%を東京市民が納めることになりました。


東京府と東京市の職掌事務の分担を明確にする必要が更に強まりました。


その解決策として期待されたのが東京都制でした。

 

1923年の都制案では、衆議院議員鳩山一郎が中心となり、都知事の公選などが計画されましたが、政府の支持を得られずに失敗しました。

昭和に入っても東京都制導入の議論や調査が進められましたが、都長(知事)の選出方法などをめぐる対立から、事態は進展しませんでした。


事態を打開したのが、戦争を背景とする挙国一致を求める風潮でした。


都制が導入された頃に、東京都が作成した「東京都制実施に関する記録」には、防空・生活必需品配給・交通整備など戦争遂行のために強力な行政機構を確立する必要から都政導入が議論されたとあります。


もちろん、都制導入の全てを防空など戦争遂行の必要性に求めることはできません。


都制案が提出された第81回帝国議会では、内務大臣は「行政ノ統一及簡素化」を都制導入の理由として挙げています。

 

画像2 首都防空は戦時中、重要な問題でした。
江戸東京博物館収蔵

一方で、衆議院の東京都制案委員会では、防空体制がしきりに審議されました。


東京都制は、1943(昭和18)年7月1日に実施されます(Ref.A14101068400)。


実に約半世紀にわたってもめた都制問題が、一応の決着がつきました。


東京都は従来の東京府の範囲と定められ、東京市が廃止となります。


東京府議会と東京市議会は廃止となり、新たに東京都議会が発足し、選挙がおこなわれました。


また、従来の区についても、自治権が縮小されてしまいました。


このように、戦時中の東京都制は、国家主義的な側面を持ち、地方自治の思想にはそぐわない形で推し進められました。

 


都制が導入された結果、1945(昭和20)年8月15日に終戦を迎えます。


空襲により焦土と化した東京は、一日も早い復興が望まれました(東京や全国の復興については、「Q&A戦争で破壊された街はどうやって復興したの?」をご参照ください)。


翌46年9月27日に東京都制は改正されました。


この改正では、自治権の拡大がうたわれました。


戦時中の都制下では、区は東京都の内部組織となっていましたが、戦後は区長が公選となり条例を制定することができるようになりました。


戦前の区は35ありましたが、1947年8月の段階で現在と同じ23区に整理統合されました。


同年に地方自治法が施行されると、都道府県知事は現在と同じ公選となりました。

 


2020年に東京オリンピック・パラリンピックが開催されます。


東京での開催は、1964年に続く2回目です(1940年にも東京オリンピックが開催される予定でしたが、戦争により開催中止となりました。詳しい模様は、「オリンピックと日本」アジ歴ニューズレター第20号や、インターネット特別展「知ってなるほど 明治・大正・昭和初期の生活と文化」内の「東京オリンピック、1940年 ~幻のオリンピックへ~」や、インターネット特別展「『写真週報』にみる昭和の世相」内の「幻の東京オリンピック」をご参照ください)。


1964年の東京オリンピックでは、東京の街並みは大きく変化しました。


実は、東京都制は1947年から幾度となく改正されています。


東京は日々変化し、私たちの生活も変わり続けます。

 

 

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